くれなゐ香る 前編
「セイ! セイってばっ!」
「・・・・・・・・・・・・」
「ちょっと待ってくださいよ! ねぇ、セイっ!」
「何の騒ぎだ?」
巡察から戻って来た永倉が、屯所の正面階段に座してニヤニヤしている原田に問いかけた。
「総司に会いに女が来たんだよ」
「あぁ? 女だと? 廓のか?」
それは有りえないだろうと口にした永倉に原田が頷く。
「総司に限ってそりゃ無いぜ。来たのは甘味処の娘っこさね」
「ああ、甘味処・・・」
それなら納得だと言いかけた永倉が原田を振り返った。
「甘味処って、例の娘か?」
「ああ、例の娘だ」
「・・・・・・そりゃ、神谷も怒るだろうなぁ」
言葉だけは気遣わしげに。
けれどその面には言葉とは真逆で、面白い物を見つけた童のような表情を乗せた永倉が
屯所の前庭で繰り広げられるだろう痴話喧嘩を眺めやった。
隊士だった頃とは違い家事と屯所の仕事で忙しいセイは、総司の甘味巡りに
つきあう余裕が無くなった。
誘っても誘っても表情だけは申し訳なさそうに、けれどけして時間を
割いてはくれない妻に大いなる不満を抱え、ひとりでフラフラ出歩いていた総司が
お気に入りの甘味処を見つけた。
大振りで素朴な田舎風の美味しいボタモチは京の美しく繊細な菓子とは対極にあって、
その飾り気の無さに惹かれて暇を見つけては足を向けるようになった。
祝言を挙げて半年にもならない。
未だ新婚の夢覚めやらぬはずが、一人ぼっちの空虚さを感じていた男がその店に
通い詰め、好物の甘味で心の虚を埋めようとしたのも仕方が無いかもしれない。
ただ、その店には一人の看板娘がいた。
日を置かずに出向くうち、その娘と親しく会話を交わすようになった。
頻繁に顔を出しては朗らかに話しかけてくる男を、娘が意識しないはずがない。
その矢先、昼日中から酔っ払って難癖をつけてきた浪人を、
その男が事も無げに追い払った。
以前から好意を持っていた男の雄姿を目の当たりにしたのだ。
娘が完璧に惚れ込み、一途に想いをぶつけるのも当然の成り行きといえよう。
肌を焦がす夏の日差しもすっかり穏やかになり、時折吹く秋風が
山々を鮮やかに染め始めている。
けれどこの場には寂寥さえ感じさせる秋の風情など微塵も無い。
「セイッ! 話を聞いてくださいったら!」
「・・・・・・・・・」
必死な面持ちでセイの後を追う総司の袂を娘が握り締めていた。
「沖田はん! “妻が自分をないがしろにする”言うてはったやないどすか。
そないなお方やのうて、うちやったら大事に大事にしますえ?」
「ちょ、ちょっと、お勝さん。いったい何を!」
「へぇ・・・」
慌ててお勝の言葉を遮ろうとした総司の声にセイの低い声が被った。
「セ・・・セイ?」
「“夫婦になるべきじゃなかったかもしれない”言うとったやないどすか。
お武家はんのご内儀になるやなんて高望みはせぇへん。
妾でも何でも、お傍に置いとくれやす」
お勝の必死な懇願が屯所の前庭に響き渡った。
「・・・妾を持てるほどの甲斐性は無いですよ、沖田先生は」
にっこり、と音がするような笑みを浮かべてセイが振り返った。
その眼差しは真っ直ぐに総司に縋っている娘へと向けられている。
「近々沖田先生の休息所が空きますから、そうしたらそちらへとお入りなさいませ」
「セ、セイッ?」
休息所、とは現在総司とセイが暮らしている家の事だ。
そこが空くという事は、セイが家を出るという宣言でもあった。
「ま、待ってください、セイッ!」
悲鳴のような声音と共に必死に肩へと伸びてきた手を、セイの繊手が無造作に払った。
「沖田先生、午後の巡察のお時間ではありませんか?」
冷ややかな視線と声音が、それ以上の動きを留めさせる。
「この先の事は明日にでも局長達を交えてお話いたしましょう。
沖田先生は今夜は屯所にてお過ごしください。では、失礼いたしますね」
最後の言葉は娘へと向けて優しげな響きを持っていたが、一瞬で向けられた背には
隠しようも無い怒りが滲んでいた。
「セイ・・・・・・」
ふにゃりと総司の表情が歪む。
「まぁよ、神谷が怒るのも当然ってもんだよなぁ」
いつの間に寄ってきていたのか永倉が総司の肩を叩いた。
「祝言を挙げて半年もしないうちに浮気ときちゃあなぁ。
さすがの俺様でもそんな情無しな真似はしなかったぜ」
相変わらず総司の袂を握ったままのお勝の顔を原田が覗き込んだ。
「何にしても仕事が待ってるぜ、総司」
永倉の指差した先では一番隊の隊士達が居並び、不安気にこちらを伺っている。
それを確認した総司がお勝の手を振り払い、滲んだ涙をグイッと腕で拭った。
「一番隊! 巡察に出ます」
「おお、行って来い」
「後の事はこっちに任せろ。サノが上手くやるからよ」
「おいおい、無茶を言うなよパッつぁん」
どうにか気持ちを保って屯所を出て行く総司の身には、秋風どころか木枯らしが
纏わりついている。
そんな後姿に憐憫の情を感じるでも無い仲間達が、笑い混じりで見送った。
「しかし・・・どうしてあんな黒ヒラメが良いんだか」
潤んだ瞳で総司の背を見つめている娘を振り返った永倉が首を傾げる。
いつの間にか周囲をむさ苦しい男達に取り囲まれていた事に気づいたお勝が、
憤然と反論した。
「何を言わはっても、うちは沖田はんの事を諦めまへん!」
「いやいや、別に反対しようとか思っちゃいねぇしな」
「そうそう。むしろ屯所まで押しかけてくるあたり、良い度胸だって感心してるぐらいだぜ」
「お前もそう思ったか、サノ。まぁ、総司の女になろうってなら、そうじゃなきゃなぁ。
神谷にしろ気の強さは天下一品だしな」
永倉と原田が喉の奥で笑いを噛み殺した。
「あ、あの・・・神谷はんって?」
「総司の女房だ。さっき会っただろう? 屯所内での通称みたいなもんだな」
怪訝な表情で尋ねたお勝へ答えた永倉が言葉を続ける。
「神谷の事は置いといても、総司の身近にいようってなら色々あるからな。
何しろ一番隊組長とくれば敵にも狙われる。当然周囲の人間もだ」
「総司と祝言を挙げて三ヶ月で神谷は・・・二度だったか? 浪士に狙われたのは」
「・・・三度だろう」
指を折って数を数えていた原田の背後から、感情の見えない声が掛けられた。
「お、斎藤。土方さんの用は済んだのか?」
永倉に問われた斎藤がコクリと頷くのと同時に原田が首を傾げる。
「総司の巻き添えが一度、屯所の帰りに狙われたのが一度じゃなかったか?」
「先日のがあっただろう。覚えてないか、原田さん」
「先日?」
「ああ! あの“なまくら”武士の件か!」
――― だっはっはっはっは!!
永倉が両手を打ち合わせると周囲にいた男達から一斉に笑いが起こる。
お勝が不思議そうに眼を瞬かせた。
「急ぎの用で薬種問屋へ行った神谷が、総司の女房だって事を知ってる浪士と
道端でばったり鉢合わせちまったらしいんだよ」
腹を抱えて笑いながら原田が説明を始めた。
「女房を人質にすれば総司を脅すにしろ何にしろ、好都合だと考えたんだろうよ。
好機とばかりに攫おうとした所へ、その様子を見てたらしいどっかの藩の若侍が
助け手よろしく颯爽と現れたんだが・・・」
――― ひっひひひっ
苦しげに腹を押さえて蹲ってしまった原田の後を永倉が継いだ。
「まぁな、神谷も黙って立ってりゃ眼を引く良い女だから、格好良く助けてあわよくば・・・
ってな事を考えるのもわからんでもないが、相手が悪かったってこったな」
実戦を知らない道場剣術など浪士相手に通用するはずもない。
あっという間に壁際まで追い詰められた若侍の剣は、背後にかばったつもりの
セイの目の前で無残な程に震えていた。
気迫からして勝負にならないと判断したセイが、若侍の腰から引き抜いた脇差で
あっという間に浪士を戦闘不能にしてしまったのだった。
「近くを巡察してた三番隊がすぐにかけつけて浪士を捕縛したんだが、
その時に神谷が斎藤に言った言葉が・・・」
「“腕もなまくらなら刀もなまくら。こんなんでは京で生きていけませんよ、あの侍”。
さすがに相手には聞こえない場所でだったがな」
斎藤の言葉が尚更男達の笑いを誘う。
いたたまれなくなった若侍がセイの手から自分の脇差をもぎ取るように取り返し、
逃げるようにその場を去ったという顛末まで知っているからだ。
けれどお勝の表情はみるみる青ざめた。
「神谷はんって・・・」
「やつの剣技はそこらの武士じゃ太刀打ちできねぇよ。並みの女子じゃないからな」
「いい加減沖田の女房に手を出す馬鹿も減るだろうがな。全く無いとはいかめぇよ。
そんな男を選ぶっていうんだ。せいぜい頑張んな、娘さん」
原田と永倉が人の悪い笑みを浮かべてお勝に視線を投げた。
周りの男達からも笑い声が消え、同様に面白がる笑みを面に貼りつけている。
「え、ええ・・・と・・・」
お勝の足が無意識にじりじりと下がっていく。
「う、うち・・・やっぱりお武家はんとは身分が・・・」
「いやいや、総司の野郎はそんなこたぁ、気にするやつじゃねぇからな」
永倉が猫なで声でお勝を宥めようとした。
「い、いえ。いいえっ! うちには無理どすぅ・・・」
半泣きで駆け出した娘の背中を、噛み殺しきれない男達の笑声が追いかけた。
総司が最近通っている甘味処の娘が、どうやら本気で入れ込んでいるようだと、
監察の山崎から聞いていた永倉達はこの展開を予想していたのだ。
どこまでいっても野暮天の黒ヒラメが無意識で起こす恋情絡みの騒動に、
最愛の妻がどれほど怒るだろうかと内心わくわくしながら待っていたのだから。
とはいえ総司が右往左往するのは面白いが、ひどくこじれて本当に離縁騒動にまで
到る事は誰も望んでなどいない。
適度に楽しんだ後は事態の収拾へ向けて手を貸してやるのが仲間としての
務めだろうと、その場の男達は内心で頷いている。
渦中の夫婦が聞いたなら、もっと前に手を貸してくれ、と怒り出すに違いないが。
「さて・・・散々笑った後は一杯やりたいもんだな、パッつぁん」
「哀れな娘の恋心に、心を鬼にして引導を渡してやったんだ。
その報酬は当然貰うべきだよな、サノ」
「なら沖田さんの帰りを待つか」
「わかってるじゃねぇか、斎藤」
傍迷惑な仲間達は、内心で滂沱の涙を流しながら巡察に勤しんでいる
一番隊組長の帰りを待つ事にした。
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